高山さんからの手紙
IMCCD 高山さんからの手紙 #002

IMCCD 高山さんからの手紙 #002

カンボジアとの出会い

2002年、JMASの活動に参加

 この手紙が皆様のところに届くころは、日本は、紅葉の秋真っ盛りの頃でしょうか。日本には、神様が下さった四季という素晴らしい、自然の絵画がありますね。春欄万桜が咲き乱れる時期、青葉が目にしみる新緑の時期、紅葉の時期、雪景色の時期などなど、これらの風景を見るとき、日本に生れてよかったなあと誰もが思われるでしょう。

 ここ、カンボジアは、残念ながら、日本のような風景はありません。1年中、暑い国なので、紅葉も、雪景色も、鮮やかな新緑もありません。しかし、南国特有ののんびりとした風景があります。私が一番好きなカンボジアの風景は、田園の中に広がるサトウヤシの群生の風景です。

 そんな風景のカンボジアに来て、もう8年近くになります。1992年―93年にカンボジアPKOに来て、カンボジアと出会ってそれ以降の私の夢は、カンボジアで活動することでした。2002年5月に36年間勤めた陸上自衛隊を定年退官した時期に、現在所属している認定NPO法人日本地雷処理を支援する会(ジェーマス)が、活動の準備をしていましたので、縁あって、その活動に参加することになったのです。そして、退官後4日目には、カンボジアに来ていました。

困難だった、地雷除去活動の活動立ち上げ

 こうして、最初の夢は、願ってもない形で実現しました。しかしながら、現地での活動の立上は、様々な困難な状況に阻まれ、思うようには、進みませんでした。言葉も、考え方も、文化も、習慣も違うわけですから、それは当り前と言えば、当たり前のことです。カンボジアに来て、2週間くらいした時に、突然、言いようのない精神不安定な状態になりました。

 恥も外聞もなく、日本に帰ろうとしましたが、現地での立ち上げを放ってしまうことは、どうしてもできなかったのです。その後も、精神状態と闘いながら、騙しだまし活動を続け、不発弾処理の活動は、外務省からの予算が出るなどして、現地で活動する日本人も増えて、活動は軌道に乗りました。しかし、JMASの夢でもあり、私の夢の続きでもある地雷処理活動が立上がらないという苛立ちや、私の精神障害などから、遂に、2004年9月に日本に帰国しました。

夢を諦めず、不可能と思われたことが実現

 夢を諦めて帰国したのではありません。夢を実現することを模索するために帰国したのです。帰国してからは、身も心もボロボロになった状態でしたので、病院のはしごをしながら、徐々に体調を整えていきました。私の家内などは、もう私をカンボジアに行かせまいと、地元で就職するように薦めました。それでも私は、病院通いをしながら、講演活動や写真パネル展などをして、JMASの活動を支援して下さる方々の協力を得てカンボジアの現状を訴え続けました。

 その結果2005年12月に一筋の光明が見えてきたのです。翌2006年5月には、地雷処理活動の予算が外務省から出るようになり、夢にまで見たカンボジアでの地雷処理活動が実現し、6月に再びカンボジアに来ることが出来たのです。その頃になると、不思議にもあれほど苦しんだ精神不安定は、全く無くなりました。正直、一端はもうダメかなと思う時期もありましたが、夢の続きを諦めることができなかったので、不可能と思われたことが実現したものと思います。ここに至るまでには、実に多くの皆様のご理解やご支援、励ましがありました。そして、何よりも、私をもう一度カンボジアに行かせてくれた家内に心から感謝をしております。

次の夢に向かって、歩み続ける

 あれから4年近くが経ちました。最初は、ただひたすら、住民とともに地雷処理の活動に没頭しておりましたが、村に住んでおりますと、様々なことが気にかかるようになりました。井戸が足りない、学校が足りない、道路がない、文房具が足りないなど。それらも、また現地から日本の皆様に訴えました。そんな訴えに多くの皆様が応えて下さいましたが、野田塾の皆様も、当初から井戸や学校の図書や、バレーボールやネット、最近では、ゴミゼロ運動の活動資金などご寄付下さり、村の自立に大いに弾みがついてきました。

 そして、また、次の夢に向かって、歩み続けています。次の夢というのは、「平和構築」というものです。大ぼらを吹いているのではありません。戦争のない社会が人類には必ず必要です。戦争さえなければ、人々は、最低限の幸せをつかむチャンスがあります。しかし、戦争や紛争があれば、そのチャンスすら消えてしまうのです。この夢は、とても私が生きている間には、実現しないでしょう。だったら、その「種まき」ができればいいと思っています。